ミニウォーク(10回):御殿峠古道探索

3/30にミニウォークを実施しました。 

【ミニウォーク案内】
日時:3/30(土) 10:00-15:00 
集合場所: 横浜線片倉駅改札 (10:00)

案内: 川辺さんにお願いしています。

天候: 雨天の場合は延期

昼食: お弁当持参

 

【コース】

2017.7に宮田先生の案内で片倉駅から歩いたルートに加えて八王子みなみ野近辺で、その際歩かなかったルート(宮田先生の資料では「古い鎌倉道」と記載されていたところ)を探索、日本閣近くのロープのある場所では崖を登り、御殿峠古道に至り相原方面に向かいます。

また、日本閣直前の旧16号から谷側に降りる細い道(東京造形大学方面に出る道で現在は荒れている?)については、歩行せず存在だけを確認の予定です。

【順路】ア(片倉駅)イ、ウ・・・→ヌ(相原駅)

◆御殿峠古道

  ・戦国時代に武田信玄が通った軍事街道

 

 今から四百五十年ほど前の戦国時代のことです。現在の東京都八王子市の南方にある多摩丘陵を越える峠道「御殿峠」を、何万という大車勢が相模湾沿いの小田原を目指して、蟻のように行き過ぎていきました。
 
 これを率いていたのは甲斐国(現在の山梨県)の戦国人名で、甲斐源氏の血をひく武田信玄(1521-1573)という勇猛なる武将でした。永禄十二(1569)の年、信玄は上野国(現在の群馬県)を回って、現在の埼玉県西部にあった後北条氏(鎌倉時代の北条 と区別するために、後の字をつけて呼ぶ)の鉢形城攻をた後、いよいよ南下して、北条氏照(1542?-1590)が籠もる滝山城(現在の東京都八王子市北部)を取り囲みました。
 次いで相模国(現在の神奈川県)の本拠地・小田原城を攻めるために、この御殿峠(旧名は杉山峠)を越えていったのです。
 このときの隊列は延々と南北に続き、 谷にも尾根筋にも甲斐の武士たちが満ちあふれ、後北条氏に属していたこのあたりの見張りの番人たちも、身を潜めて、ただただこの大軍が行き過ぎるを静かに見守るしかなかったのでした。
 信玄はしばらくこの高台で足を休め、山頂から武蔵野と相模野の双方のようすを跳めたあと、一路小田原へと、軍勢に向けて采配をふるいました。法螺貝と太鼓の合図で、数万の軍勢がいっせいに立ち上がって動き始めると驚いた山鳥りの群れが天高く舞い上がったのです。
・御殿峠の名の由来と伝説
 現在の御殿峠は、まだ色く緑が残るものの、 結婦式場や学校 病院などが建ち、峠の山頂を切り通してできた国道十六号線をトラックがひつきりなしに走っています。この国道の少し西側に、並行するように約千五百メートルにわたって、南北に続く古道が、奇跡的に残っています。
 この大きな溝跡のような鎌倉街道の痕跡は、 一見すると川のように見えるほどです。複数の道が並行して残っていることからここは古代から交通量の多い道筋だったことがわかります。また、このあたりは平安時代に、須恵器や士師器といった土器や国分寺の瓦を焼いた、国内最人級の面積をもつ「御殿峠古窯跡群」があることもわかってきています。
 当時この地に、京の都から巡検にやってきた按察使大納言という人の御殿があったという話や、関東武十団の横山党の一族だった藍原孝遠の館があったという話などが伝説として残り、その場所が現在も林の中に平坦な土地として残っています。これらから「御殿」の名がつけられたといわれていますが、ほかにも、峠にあった「お浜」という女主人の茶屋の屋根が、重石の重みでそっくり返った形をしていたことから「お浜御殿」と、客がからかったことに由来するなど、さまさまな説があります。
・御殿峠には城があった?
 古代に、窯焼きの職人や旅人たちが往来したこの街道は、後に主要な鎌倉街道となり、戦国時代には城と城を結ぶ軍事街道として、防衛面や輸送面で強化されていったようです。そして、後の江戸時代には、大山阿夫利神社(現在の神奈川県中央部の大山山頂にある)などへの参詣道や八王子、町田・厚木などへの物資輸送道・産業道として、たいへんにぎわったのもこの道なのです。
 「旧川越道」や「小田原道」などと呼ばれていたこの道は、明治時代には峠を大きく迂回する新道がつくられて、峠をまっぐに乗り越えいく古現はついに廃れ、昭和時代になると、峠を切り通してできた現在の国道十六号線へとその役目は移ってきたのです。
 この一帯は、後北条氏の物見や関所といった通信や防衛の拠点になった可能性が高く、峠の山頂付近には、明らかに人工的な中世の山城の跡のようなものが見られます。近年、南方の一部の痕跡が「殿丸城」として紹介されて以外には
ここが城だったことは取り上げられたことはありませんが 未発見の城跡といえるでしょう。
 武田信玄の通過直後、後北条氏が隣接する「片倉城」とともに、防衛強化のために改修工事をしたとも考えられます。
 鎌倉街道としてのこの御殿峠古道は、最大幅が十メートルを越える掘割状で、深さも三メートル以上ある場所が長く続いています。その規模があまりにも大きく、 かえって、一般にはその存在は気づかれていませんが、幹線道としてたいへん重要な古道跡だと考えられるのです。